五十嵐悌三郎の略歴
明治26年9月21日 山形県西田川郡栄村播磨に生る(現鶴岡市播磨)
大正4年10月 山形県師範学校本科第一部卒業
同年10月15日 山形県西田川郡第二小学校訓導勤務
大正6年3月31日 鶴岡町第四小学校勤務
同8年11月27日 師範学校、中学校、高等女学校音楽科教員免許状を受く
同年 11月30日 山形師範学校教諭に任ぜらる
大正13年6月9日 朝鮮総督府に出向、淑明女子高等学校教諭
同 14年5月 京城師範学校に勤務
昭和5年9月 京城師範学校退職
同 6年4月 朝鮮総督府李王朝雅楽部勤務
同 7年3月 同上退職
同年 4月 双葉児童音楽園開園
以後 ピアノ教授、第一高等普通、第二高等普通、YMCA、彰徳女学校嘱託、などの略歴
でありましたが、常日頃日本古来の音楽について考えていたためか、真夜中、朝鮮神宮より
の帰途、ふと気づいたものがあり、帰宅してすぐ、その音階を書き、これが今まで考えていた
ものであったと悟り、種々研究を重ね、遂に日本在来の音階を発見した次第でございました。
昭和12年暮すべての仕事を捨てて上京し、その作曲に専念し、女学校四年、二年の娘を
工場に務めさせ、私も派出婦や工場で働きました。
昭和13年の夏には郷里の小学校に講習に行ったりしましたので、本当に仕事をしたのは
僅か1年8ヶ月位の間でした。
その間、筆禍、舌禍ありなどで軍部の圧迫を受け、昭和14年10月に遂に留置され、12月
14日出所しましたが、その時は既に体を悪くしておりましたので、そのまま床につき、翌15年
5月1日遂にあの世の人となりました。
童謡は別として、他の曲は日本古来の音階によって作曲したものですから、現代の音楽とは、
随分違いますが、夫が精魂を傾けて作曲したものであります。
小著に 「洋楽の覊絆を脱せよ」 「優秀国家君が代の楽的新研究」 「国家の原理」 があります