酸模の咲く頃 北原白秋 作詞
土手のすかんぽ ジャワサラサ
昼は 蛍がねんねする
僕ら小学尋常科
今朝も通ってまた戻る
すかんぽ すかんぽ 川のふち
夏が来た 来た ド レ ミ ファ ソ
日本最初の楽団であった日本交響管弦楽団は分裂し、裏切られ
多くの借金を負い山田耕筰氏は傷心していた。楽団が所有する
沢山の楽器をトラックに積み込み、東京から茅ヶ崎の南湖に、
家族と共に移り住んだのであった。昭和元年の事である。
〜〜山田耕筰氏の童謡百曲集の解説から〜〜
争闘の渦を逃れて松翠香る茅ヶ崎の砂丘に愛児らと心ゆくまで
遊び戯るゝとき、月夜遠浪の音に聴きほれて茅屋のヴェランダに
仰臥するとき、煩忙な、あまりにも煩忙な公的生活によって阻ま
れていた私の創作意は、私の過去の生活に於いてかつて味解し得
なかった清澄な心境と静寂の聖座にぬかづく心とに促されて、生
き々として萌え出づるのでありました。
晴朗な湘南茅ヶ崎の大気。その晴朗な大気と愛児らの素純。
それこそは私の胸底に徒らなる永き眠りを強いられていた「歌」
に朗かな暁の光を点じたのであります。実にこの曲集は私一生の
深き思い出となるばかりではなく、私をして過ちなき路を辿らし
めた貴き友であるといわねばなりません。私にとっては感謝の歌
であり、また凱旋の歌でもあります。
私は今、この曲集を祖国の父と母に、姉と妹に、そして愛する
コドモに贈るにつけても、切に希ふ。−−−児らの愛によって生
れ出でしこの「父の歓喜の歌」をして、児らの心に培はしめ、さ
らにその果実をして世の多くの悩める父の心を慰め、くもれる母
の胸を照らさして給えと。
昭和二年四月三日
茅ヶ崎南湖の居にて
耕筰